カントの「神の存在証明」

カントの「神の存在の唯一可能な証明根拠」

 

第一考察 現存在一般について
一 現存在はなんらかの事物の述語でも規定でもない
 任意の主語、例えばユリウス・カエサルを取り上げてみよう。考えつく限りのカエサルの述語を時間と場所のそれをも含めて総括してみるならば、これらの規定をすべて持った主語が実在することもありうるし、実在しないこともありうることが、たちどころに理解されるだろう。
 そもそも現実には存在しない幾百万のものが、もしそれが実在するなら持ったであろう一切の述語を考慮にいれたとしても、単に可能なものであるに過ぎない。

 

 

二 現存在は事物の絶対的定立であり、この点で、その他の述語がすべてそれ自体としては他の事物に相対的に定立されるのとは異なる
 神は全能であるという場合、述語は主語の徴表であるから、このような神と全能との間の論理的な関係が考えられているのに過ぎない。ここではそれ以上のことはなんら措定されていない。神が存在するのか、つまり絶対的に措定され現実に存在しているのかは、ここにはまったく含まれていない。

 

 

三 現存在のうちには純粋な可能性のうちより以上のものが存していると私はいうことができるか
 三角形があるならば、三つの辺、一つの囲まれた空間、三つの角などがある。あるいはより適切にいえば、これらの規定が三角形というものに対して持つ関係だけが単に措定されるにすぎないが、いったん三角形が存在するや、これはすべて絶対的に、つまりこれらの関係ごと事物そのものもまた措定されるのであり、したがってより多くが措定されるのである。
 実在するものによっては可能なものによって以上のものが措定されている、なぜならば、これは事物そのものの絶対的な定立にもまたかかわるからである。

 

 

 

第二考察 現存在を前提としている限りでの内的可能性について
一 可能性の概念における必要な区別
 自己矛盾的であるものはすべて内的に不可能である。
 四角な三角形とは絶対的に不可能なものである。しかし、直角を持つ三角形はそれ自体として可能なものである。

 

二 どんなものの内的可能性もなんらかの現存在を前提としている
 可能性というものは、内的な矛盾が不可能性の論理面として存在する場合だけでなく、可能性の実質面ないし思考さるべき条件が存在しない場合にも、消滅する。なぜならば、その場合はそもそも思考さるべきものが存在しないが、どんな可能性も思考可能なものであり、それには矛盾律を遵守した論理的関係が帰属するからである。
 何も存在していない場合には思考可能であるものもまた存在していないのであり、にもかかわらず何かが可能であるということには自己矛盾がある。

 

三 なにものも存在しないことは絶対的に不可能である
 あらゆる可能性がおしなべて廃棄されるようなものは絶対的に不可能である。

 

四 すべての可能性はなんらかの現実的なもののうちに、それの内なる規定としてか、または、それによる帰結として与えられている
 他の内的可能性が根拠としてのそれによって与えられるような現実的存在をこの絶対的可能性の第一実在根拠と名づける。矛盾律はそれとの合致において可能性の形式面が成り立つゆえに絶対的可能性の第一論理根拠である。現実的存在は思考可能なものにおいて条件と実質面を与える。
 述語と主語が矛盾律にのっとって合致するということは、それらの概念そのもののうちに基礎があるのである。
 読者は物において与えられている思考可能なるものに立脚し、この論理的規則にのっとって結合関係だけを考察する。しかし読者がついには、そもそもいかにしてこれらが与えられるのかを考えるならば、一つの現存在以外のものを引き合いに出すことは出来ないのである。

 

 

 

第三考察 絶対的に必然的な現存在について

 

一 絶対に必然的な現存在の概念一般について
 あるものが絶対的に必然的でありうるのは、それの非存在が一切の思考可能なものに対する条件をも否定することになる場合である。

 

二 絶対的に必然的な存在が存在する
 可能性はすべて、そこにまたそれによってあらゆる思考可能なものが与えられる現実的存在を前提としている。したがって、もしそれを廃棄するならばすべての内的可能性が総じて廃棄されてしまうであろうような、ある一定の現実性が存在する。しかるに、それを廃棄したり否定したりするとあらゆる可能性が絶滅するようなものは絶対的に必然的なのである。したがって、なにものかが絶対的に必然的な仕方で存在する。ここまでに明らかとなったのは、一つまたは複数の物の現存在そのものが一切の可能性のベースにはあるのであり、この現存在それ自身は必然的であるということである。

 

 

三 必然的存在は唯一である
 必然的存在は他のすべての可能性の最終的実在根拠を含んでいるのだから、他のすべてのものは根拠としての必然的存在によって与えられる限りにおいて、はじめて可能となっている。ゆえに複数のものが絶対的に必然的であることはできない。

 

 

四 必然的存在は単純である
 複数の実体から合成されたものは絶対的に必然的な存在たりえない。仮に一部分だけが絶対的に必然的であるとするならば、残りの部分はすべて帰結としてそれによって初めて可能であるということになり、対等な部分として全体に属することができない。

 

 

五 必然的存在は不変であり、永遠である
 自己自身の可能性すらも、またすべての他の可能性もこの現存在を前提しているのであるから、この現存在がほかの仕方で実在することは不可能である。すなわち、必然的存在はさまざまな仕方で存在することはできない。その非存在は絶対的に不可能なのであり、したがって、必然的存在が生み出されたり消滅したりすることも不可能であって、それゆえ永遠的なのである。

 

 

六 必然的存在は最高度の実在性を含む
 どのような実在性もなんらかの仕方で必然的存在のうちに含まれていることは明らかである。
 他のあらゆる可能性がそれによってはじめて可能なのだから、この必然的存在は一切の可能なるもののなかでも最高の実在性を持つものであるからといっても、これを一切の可能な実在性がその規定として属するというように理解してはならない。すべての実在性は神ないし必然的存在に述語として等しく帰属させられるが、その際、それら諸述語が唯一の主語に属する諸規定としては決して並存することができない。物体の不可透入性、延長その他は知性と意志を持つ存在の性質ではありえない。実在的反対は論理的反対、つまり矛盾とはまったく別のものである。最高の実在性を持つ存在=神においては、実在的反対や積極的対立はその固有の規定であることはできない。
 否定そのものはなにものかでも、思考可能なものでもない。否定だけを仮定するならば、その場合なにも存在しておらず、また思考さるべきなにものもない。だから否定とはそれと対立する措定によってのみ考えられうるのである。

 

 

 

第四考察 神の現存在の論証のための証明根拠

 

一 必然的存在は精神である
 必然的存在には知性と意志という属性も属する。帰結は根拠を上回ることはできないから。

 

四 結論
 「私は考える」の「私」は決して絶対的に必然的な存在ではない。なぜならば、私は一切の実在性の根拠ではなく、私は可変的であるからである。また、存在しないことも可能であるもの、すなわち、それが廃棄されても同時に一切の可能性が廃棄されるのではない存在は、必然的存在ではない。さらに、どんな可変的なものも、制限を受けているものも必然的存在ではない。したがって世界そのものもまたそのような本性の必然的な存在ではない。
 われわれが与える神の現存在の証明根拠は、「なにものかが可能である」というただ一点の上に打ち立てられている。それゆえにこの証明は完璧にアプリオリ(経験に先立って)に遂行されうるのである。この証明は、私の存在も他の精神的存在も、いわんや物体界の存在も前提とはしていない。それは事実として絶対的必然性の内的性格からのみ取り出されたものである。われわれはこのような仕方でこの存在の現存在をそれ自身の絶対的必然性を実際に構成するものから、したがってまさしく生成から認識するのである。
 この存在が生み出した結果から発してその原因の現存在へと遡る今までの証明はすべて、それが厳密に証明されたとしても(実際にはそうではないのだが)、この必然性の本質を決して理解できるものとはなし得ない。「なにものかが絶対的に必然的に存在する」という事実だけが、「なにものかが他のものの第一原因である」ということを可能とするのである。
 神的存在によって与えられる事物の可能性そのものは神の偉大な意志と一致するのである。この一致においてこそ善と完全性が成立する。そしてこの一致は同一のものにおいて一致するのだから、事物の可能性の内においてさえも統一と調和と秩序が存在するのである。
 しかし、もしわれわれが経験が教える事物の本質的性質についての成熟した判断によって、それらの内的可能性の必然的規定においてすらも多のうちの統一と分離における調和を知るならば、われわれはアポステリオリ(経験から)な認識の道によって一切の可能性の唯一の根源へと遡ることができ、ついにはその同じ根本概念において絶対的に必然的な現存在を見出すことができるだろう。ここからわれわれは当初アプリオリな道によって出発したのである。今やわれわれの目的が向けられるのは、事物の内的可能性においてすらも秩序と調和への必然的関係が、そしてこの計り知れない多様性において統一が見出されないか、ということである。それによって、事物の本性そのものが最高の共通した根拠を知っているかどうかをそこから判断することができるのである。

 

 

 

第三部 上述の証明根拠以外には神の現存在の論証はありえないことが示される

 

一 神の現存在のあらゆる可能な証明根拠の分類
 神が存在するという偉大なる真理の確信は、われわれがそれに最高度の数学的確実性を持たせようとするならば、唯一の道を通してのみ到達されうる。
 もともと満たすべき要請は、きわめて偉大で完全な第一原因の現存在ではなく、最高存在の現存在を、ひとつまたはいくつかの存在ではなく、唯一の存在の現存在を、そしてこれを蓋然性の大きな根拠によってではなく、数学的明証性をもって証明するという要請である。
 神の現存在の証明根拠はすべて、単に可能なるものという悟性概念から、または実在するものという経験概念から導かれうるだけである。第一のケースでは、根拠としての可能なるものから帰結としての神の現存在へと推論されるか、または、帰結としての可能なるものから根拠としての神の実在へと推論が行われる。第二のケースでは、再び、我々が経験する現存在から第一の独立的な原因の存在のみへと推論し、この概念の分析によってその神的諸属性が推論されるか、または、経験が教えることから神の現存在のみならず諸属性までもが直接に推論されるかである。

 

二 第一種の証明根拠の吟味 
 根拠としての単に可能なるものの概念から帰結としての現存在が推論されるデカルト的証明は不可能である。この場合、可能なるものの中に現存在が含まれていなければならないから。現存在は述語ではなく、それゆえに完全性の述語でもないこと、したがって、なんらかの可能なるものの概念を構成するためにさまざまな述語を恣意的にひとつにしたものを含んだ定義からこのものの現存在は決して推論されえず、神の現存在も推論されえない。
 これに反して、帰結としての事物の可能性から根拠としての神の現存在への推論はまったく種類を異にする。ここでは、なにものかが可能であるためにはなんらかの実在するものが前提されねばならないのではないかということ、それなしではいかなる内的可能性ですら成立しない現存在は、われわれが神の概念のもとで一括結合する諸属性を含んでいるのではないか、ということが探求される。この場合制約された可能性から現存在を推論することはできない。内的可能性からのみ導かれる。

 

三 第二種の証明根拠の吟味
 実在するものの経験概念から発して神の現存在に達し、同時にその諸属性が推論される証明は可能であるばかりでなく、努力を結集してふさわしい完成にもたらすに完全に値する。われわれの感官に現れてくる世界の事物は、その偶然性のはっきりとした徴表を示すと同時に、偉大さと我々がいたるところで自覚する秩序と目的にかなった仕組みによって、偉大な英知と力と善性を持った理性的創造者の証拠もまた提示している。
きわめて広範囲におよぶ全体に見られる統一性は、これらのものすべての唯一の創造者が存在することを示している。

 

四 神の現存在の証明はただ二通りのみ可能である。
 実存するものの経験が我々に教えることから神の現存在を証明する方法(宇宙論的証明)は、最高原因の現存在だけでなく性状をも推論しうる。しかし、この証明方法は数学的確実性と厳密性を持つことができない。
 一切の事物の内的可能性そのものをなんらかの現存在を前提とするものと見なす証明方法(存在論的証明)は厳密性を持ちうるように見える。
 しかし、論理的厳密性と完璧性に関しては存在論的証明だが、健全な一般常識にとっての分かりやすさ、印象が生き生きとしており、美しく、人間の道徳的推進力に対して訴える力を求めるならば、宇宙論的証明に優位を認めるべきである。

 

五 神の現存在の論証はただ一つしかなく、そのための証明根拠は上述された 事物は存在しないことも可能である。したがって偶然的な事物の経験は存在しないことが不可能な存在の証明根拠になりえない。
 内的可能性、事物の本性こそは、それを廃棄するとあらゆる思考可能なるものを絶滅する当のものである。ここにこそ神の存在証明根拠がある。

 

 

カントの論文は
「カント全集3 訳者福谷茂他 岩波書店発行」より抜粋

 

 

 

「純粋理性批判」

 

しかし、カントはのちに、「純粋理性批判」の中で、「神の現存在の存在論的証明が不可能であるゆえんについて」記述しました。

 

カントは「神の存在の唯一可能な証明根拠」において唯一可能な神の存在証明の仕方を提示したのですが、その中身については結局わからなかったのです。

 

カントは、物の内的可能性を、物単体における内的可能性という範囲でしか考えませんでした。
カントは、物を単体としてしか見なかったのです。それで、最高存在たる神があろうとなかろうと物が存在することに変わりはないと考えましたし、物の存在原因として神が存在するという命題は神も存在物のひとつに含むことになってしまい矛盾すると論じました。そして、神を概念以上のものとしては捉えられなかったのです。

 

「相対的関係がなければいかなるものも存在できない」という命題は、カントの考察には含まれていませんでした。
カントの見出すことが出来なかった内的可能性なのです。

 

存在するというとき、既に相対的関係があることが含まれています。いかなるものとも相対的関係を持っていなければその存在を認識することは不可能だからです。そして、存在するものについて考察している現考察において、存在するかどうかわからないものを考慮に入れる必要はまったくありません。

 

 

物が存在するためには相対的存在との間の相対的関係が必ず必要だとするとき、相対的関係をなす2者とその関係をなすための先有条件を与える必然的絶対的存在としての神の3者間の関係が出てきます。この関係性こそ、神の存在を証明しうる唯一の証明なのです。この場合、先有条件を与える絶対者の存在なくしては相対的関係が成立せず、存在すると言えるものは一つもなくなります。
この3者の関係はカントの考察にはなかったものです。

 

参考文献
「カント全集5 有福孝岳訳 岩波書店発行」

 

 

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