神の存在証明

2006.1.17  森田義彦    

現代社会の混迷状態

神様が存在するか否かは、今日の社会では学問的に議論不可能とされています。その結果、社会は神様とは無関係に人間を中心とした方向に進んでいっています。
信仰者にいくら信仰があっても、その信仰は社会においては否定されることが多くあります。信仰は独断的なものとしか見られず、否定され、打ち倒されてしまうことが多いのが現状です。平準的な価値観として「毎日の活動は生きていくためにある」という現代社会においては、信仰は二の次になってしまう可能性があります。生まれてきて初めて生活が始まることを思えば、神様が先にいらっしゃって人間に生命を与えたという神と人間の親子の関係をすべての人が知った上で人間社会の営みが展開されていくべきなのに、実際はそうなっていません。
このような現実社会の思想は根底が間違っています。社会が多くの矛盾した問題で今もって苦しんでいる根本的理由は思想の根底に間違いがあるからです。この混迷状態を打開していかなければなりません。そのためには、最も根本的な問題である、人間が地上に出現した理由である神が存在するのかという、これまで学問的に議論不可能とされてきた問題を解決する必要があります。


神の存在証明をいかにして現代社会に接ぎ木するか

この社会の思想を根底から修正して社会に真の平和をもたらすには、神の存在を証明することが必要です。しかも、現代社会に生きる人々が納得できるような論理的整合性を持って説明する必要があります。
統一思想要綱にも神の存在証明についての記述があります。「統一思想は神をその始発点としているために、神の存在証明を扱わざるを得ないのである。(新版統一思想要綱p769)・・・。統一思想において神の存在の証明を仮説的方法で行うということは、無神論者たちに対して神の属性に関する理論(原相論)をいったん仮説として認めさせておき、その仮説から導かれる結論を自然科学の実験や観察の結果と対照してみて、その結果と完全にまた例外なく一致するということを明らかにすることによって、この原相論が真説であることを公認させる方法をいう。(p774)」
※仮説 演繹の原理として提出される、証明されていない命題・理論。実験・観察によってそれを破棄または受容することで諸科学の理論が成立するとされる。
統一思想において論じられた神の存在証明をいかにして現代社会に接ぎ木して現代社会の思想を根底から修正していくかという課題に対して、接ぎ木する場所として適しているのが「カントの神の存在の唯一可能な証明根拠」であると思います。


神の存在証明にどんなものがあるか

これまでも人類は神の存在を証明しようとして努力してきました。現在までのところそれは4つの方法に分類することができます。
(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より一部抜粋)

1.目的論的証明
 自然の世界に高度な目的的な仕組みや存在のありようがあるのは、「人知を超越した者」の設計が前提になければ説明がつかない、という証明の仕方です。これを支持するのはニュートンなどです。
 しかし、無神論者は、その原因は物理的法則に過ぎないと言います。また、あたかも目的があるかのように見えるだけで実際には目的などないのだと言います。

2.本体論的証明
 存在するという属性はすべての存在者が備えているが、そのなかで「最大の存在属性を持つ者」こそが神であるという証明の仕方です。アンセルムスなどが試みました。
 しかし、無神論者は、神は人間の類的本質と完全欲が対象化されたもの以外の何者でもないと言います。すなわち、神は人間が作り出したものに過ぎないと言うのです。

3.宇宙論的証明
 これは古典ギリシアのアリストテレスにさかのぼります。事物や出来事には、すべて「原因」と「結果」がありますが、宇宙において物体が運動するには何か原因がなければなりません。そこで、原因となった出来事を考えますと、この出来事にもまた原因がなければなりません。このように、より根本的な原因へとさかのぼりますと、この過程は「無限」ではないはずです。この原初の根源原因が神であるという証明方法です。トマス・アクィナスは、キリスト教の神に当てはめて、この証明を行いました。
 しかし、無神論者は、物質の原因をさかのぼっていっても物質にしかならないと言います。

4.道徳論的証明
 人間が行っている道徳法則の源泉、道徳的な世界秩序の源泉として、神の存在を認める証明方法です。上記三つの神の存在証明をすべて論駁し否定したイマニュエル・カントが、彼自身の哲学の帰結として説明しました。
 しかし、無神論者は、そのような道徳は支配階級が作った規範にすぎないと言います。


神の存在を否定する哲学者はいない、しかし、存在を証明した哲学者もいない

プラトン、アリストテレス、パスカル、デカルト、カントなど、代表的な哲学者はみな神の存在を認めています。それにもかかわらず、一方においては、無神論者が神の存在を抜きにした世界観を築きあげているのが現状です。


これまでの神の存在証明の特徴

これまでの神の存在証明は、みな、原因と結果が一本軸で結ばれているということが言えます。すなわち点と点の関係でしかないわけです。これでは、その点をどうとでもとらえることができます。原因を神と捉えることも物質と捉えることもできてしまうのです。


「神は存在する」から「神が存在しなければこの世界も存在し得ない」へ

それでは、どのようにしたら神の存在を証明することができるのでしょうか。
その答えは、「もし神が存在しないとしたらこの世界も存在しない」ということを説明することです。
カントは「神の存在の唯一可能な証明根拠」の中で、「あるものが絶対的に必然的でありうるのは、それの非存在が一切の思考可能なものに対する条件をも否定することになる場合である。」と言っています。これが説明できれば、現にこの世界は存在しているのですから、神が絶対的必然的に存在することが証明できるのです。
しかし、これまでの一本軸で結ばれた神の存在証明では、神の存在いかんがこの世界の存在になんら影響を与えることがなかったのです。カントも「純粋理性批判」の中で、「神があろうとなかろうと物が存在することに変わりはない」といい、この問題を放棄してしまいました。


文鮮明先生ご夫妻が人類の真の父母であるゆえん

それの非存在が一切の思考可能なものに対する条件をも否定して一切の存在が存在不可能となってしまうような「それ」とはいったいなんでしょうか。
それがまさに、文鮮明先生が発見された「二性性相の神」なのです。二性性相の神によってもたらされるのが、「いかなるものにも潜在する先有条件」であり、これによって、いかなるものも、相対的関係を結ぶことが可能なのであり、この世界に存在する事物の一つとして数えられるのです。
もし、二性性相の神を否定したとするならば、神によってもたらされている先有条件は失われ、事物間の相対的関係はことごとく消滅し、一切の存在は存在関係を失うことになり、この世界は存在するということが出来なくなってしまい消滅します。
ここにおいて、カントが「神の存在の唯一可能な証明根拠」の中で仮定した「あるものが絶対的に必然的でありうるのは、それの非存在が一切の思考可能なものに対する条件をも否定することになる場合である。」という命題の「それ」が何であるかが明らかとなり、この命題が実質的に成立し、神の存在は証明されたわけです。
これが人類にとって意味するところはあまりにも大きいと言わざるを得ません。

参照
寄稿文「神の存在証明」
掲示板「カントの『神の存在の唯一可能な証明根拠』」




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