創造目的学会  Let's complete this world which was created by God.

一見解

一見解

2005.2.14  平井秀明

 

有史以来、自分の意思で生まれてきたという人は誰一人としておりません。

 

ならば、「自分の為に私は生まれてきた」と自信をもって主張できる人はいないはずだということになります。そう考えてみますと、人間は、そのプロセスはともかくとして、目的もなく単なる偶発的に発生した生命体から誕生したか?あるいは、創造主の何らかの目的・願いがあって必然的に誕生したか?の2つのうちいずれか一方でしかないと言うことになります・・・

 

もし、人間が、単なる偶然に発生した生き物の一種なら、本当の意味で、社会に善も悪もありません。自分勝手に生きても、迷惑さえ掛けなければ誰も咎める人はいないはずです。法律に背けば公権力で罰せられるだけでありましょう。しかし、その場合、同時に、私達人間は何の価値もない存在だということになり、「尊厳性」と言えるものもあるはずがないということになってしまいます。
人間が、勝手に、「自分には存在価値がある」と言い聞かせてみたところで、それはナンセンスです。なぜなら、そもそも、本源的に、人間が存在するようになった目的自体が無いのですから、その存在価値も生来あるはずがありません。

 

人間に「本源的な存在価値」があって「尊厳性」があると断言しようとするなら、人間が絶対的に必要とされて生まれてきたものでなければならないと思います。
即ち、「創造主」が存在し、「創造主が人間を創造した目的・願い」があったと「仮定」しなければ、「生まれる前から持っているはずの人権」や「人間の尊厳性」と言えるような「すばらしい価値」が生来あるとは決して言えないだろうということなのです。

 

多くの諸外国の基本法や憲法の前文を読んでみますと、創造主なる存在を謳っている場合が多く見受けられます。アメリカの独立宣言にも「創造主」が出て参ります。

 

結局、人間の生命の根源である創造主の存在を認めないと、人間には本来的な価値が無いので、人間の存在を讃美することも出来ないという結論になります。

 

創造主の存在を認めずに、ただただ人間の尊厳性ばかりを謳っている日本人を、外国人が奇異に受けとめる場合が多くありますが、これはそのような日本の無神論的な思想からは、「尊厳性」といえるような価値は決して生じ得ないという、明らかな論理的誤りがあるからだと思われます・・・

 

また、人間にどの程度存在価値があるかは、今測られようとしている人間自身で勝手に決められません。測られようとしている人間それ自体の内部にその尺度があれば、当然、利己的にならざるを得ないでありましょう。

 

そのようなことを踏まえて国家に眼を向けて見たとき、刑法という国の法律において、「14歳未満は罰しない」と、国家が「線引き」した以上は、「行為規範」なるものを、国は、子女達に、刑法で罰せられない年齢の上限に到達するまでの間に教育する義務・責任があると思います・・・

 

刑法は、「行為規範」ではありません。刑法は、「裁判規範」であって裁判官の為のものです。ですから、「国家の規範」が別に必要だと言うのです。そして、そのための善悪基準も、当然に、上述したとおり、自己(国家)の「外」になければならないはずですが、それが無いので、世界は、いまだに闘争状態のままなのではないでしょうか?「唯一絶対なる創造主の人間創造の目的」なるものを認めない限り、人類にとって、その「外」にあるべき「基準・尺度・ものさし」が、真の意味で有るはずがなく、また、新たな世界観の創出も在り得ないと思います。

 

創造主が存在するかしないかを多数決で自由に決めることができるでしょうか?
私達が、創造主を信じるか信じないかの「自由」がある前に、存在するか存在しないか、なのではないでしょうか? 2つに1つです。事実は、どちらか一方でしかないのですから・・・

 

そのことをまず議論すべき「責任」もあるだろうということなのです。

 

そのような真剣な議論を、科学的なアプローチを以って試みようとすることが、創造主を冒涜することには決してならないだろうと私達は確信しております。

 

「創造目的学会」は、まさにその為に発足致しました。

 

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