創造目的学会  Let's complete this world which was created by God.

先有条件の設定者

先有条件の設定者

2005.05.11  平井秀明

 

目に見える現象世界を成立させる初期条件の存在について

 

今までの科学の多くの作業は、その自然界の存在様相の根幹である、「相対的関係」という「格位」「位置関係」を、「当然在ってあるもの」として認識し、その後の、目に見える現象化した世界のみを考察・追求して来た、と言えると思いますが、初期条件の明確な設定がなければ、そのような位置関係を伴う恒常的な法則性や、さまざまな相対的関係に因る「作用」というようなものは、およそ「存続」し得ないと考えられます。

 

つまり、本学会で主張している「相対的関係」に因る「授受作用の原理」というものは、あらゆるすべての自律性・主体性を伴う自然界の「作用」の裏付けとなる「普遍的な第一法則」であり、この自然界が、結果として、そのような「普遍的な法則性」に因って存在していると認める以上は、この自然界はもちろん、宇宙にいたるまで、その結果を導く為の原因としての、或る一定の「普遍的な初期条件」が、まず最初に設定されてなければならなかったであろう、ということが推測できるのであります。

 

即ち、その初期条件を設定するには、その為の何らかの「基準」が先ずなければならず、何らかの「基準」「デフォルト」を設定し得ない「初期条件」に基づく「法則性」などと言うものは、絶対に在り得ないし、また、普遍的に、顕現・動作・継続し得ないと考えられます。

 

ここにおいて、その「普遍的な条件」とは、本学会でいう所の、「存在しているものは、いかなるものであっても、相対的関係を結ぶことによって初めて、存在している。」という命題であることは言うまでもありません。

 

つまり、何の目的もなく、偶発的に、あらゆる相対的関係が、たまたま格位性を持ち合わせて、お互いにそれぞれに作用し合うように「構築」されたのかどうかということです。

 

科学は、いまや、なぜ、このような相対的関係が、この宇宙に普遍的に存在するのかということを、考えなければならないのではないでしょうか?

 

本学会は、まさしく、この法則性を掌る根源者を問うているのであります。

 

相対的関係の成立要件

 

以上のように、全ての自律性を伴う自然現象は、必ずと言ってよいほど、主体と対象の相対的関係の連続によって発生していますが、その相対的関係の相手方を、その一方が、自分で決めることはできないでしょう。

 

たとえば、DNAのシステムにおいては、複製を目的としたDNAの主体と対象における2重鎖のレシピに従い、無数の主体と対象の授受作用によりたんぱく質の合成を行い、それが、自律性を以って、1つの組織・細胞・個性体の完成へと成長させていくわけですが、そこへたどり着くまでの、全ての無数の主体と対象の相対的関係による授受作用のシステムが、何の決定的な初期条件の設定もなくして、自分の相手方も知らずに、何の脈絡もなく、何の連帯性もないままに構築され、その後、その「システム」が、「DNA」という名を借りて、完成基準で、絶えず、何億年も淘汰されずに、作動・承継されてきたと言うようなことを、到底、私たちは受け入れることができないのであります。

 

たまたま、主体と対象の関係として、お互いが惹かれ合い、作用しあい、そのことで、何らかの高次元的な作用が更に生じたとしても、それが、何の絶対的な基準も条件もなく、「法則性を伴う恒常的なシステム」として完成・構築されたとは、私たちには考えられません。

 

ばらばらだったアミノ酸の合成要素が、たとえ、太古の地上付近で、偶然出会っても、そのお互いが惹かれ合う「動機付け」が、元よりなされていなければ、つまり、相手の為に存在せしめられているように「動機付け」がインプットされていなければ、たとえ何億年経っても、相互間で「作用」が生じ始めるはずがないというのです。

 

最初に何らかの「因縁」がなければ、「結果」を見ることは出来ないというのです。そのような「先有条件」が原因として設定されていなければ奇縁もないというのです。

 

ましてや、私たちが確認できるその「作用」のほとんどは、「高度な機能性」を伴うものであり、「目的性」をも伴うものの様に思えます。ネオ・ダーウィニズム論者が説明される内容、即ち、「偶発的な突然変異と累積淘汰で、目的性を持っているといっても差し支えないような機能性が完成された」というような、消極的な、偶然性に頼る「機能」とは到底思えません。

 

つまり、結局のところ、その主体と対象は、相手を知って生まれてきたと言わざるを得ないのであり、たとえば、DNAで言えば、グアニンが誕生する前に、シトシンに合わせて、グアニンが作られていたというより他になく、更には、男子が生まれる前に、女子が存在することを知って、男子が生まれてきた、と言うより他にないのであります。

 

しかし、グアニンや男子自身がそれを知る由もないわけで、相手を知って生まれてきたということは、つまりは、「双方」を構想理想の中で先に考えていた設計者のみが知っていたということに他ならないのであります。

 

赤ちゃんは、お母さんの母乳が存ることを知って生まれてくるのであり、タンポポは、この地上に風が吹いていることを知って生まれてくるので、あのような落下傘のような種子を付ける「システム」に元よりなっているわけです。

 

このように、相手と共存して関係を結ぶように最初からお互いを存在せしめた、そのような目に見えない内的基準を以って、「先有条件」を最初に設定した「設定者」が存在するであろうことは、以上のことから容易に頷けることであると考えます。

 

即ち、お互いが、相対として、合わせて存在できるように条件設定するには、最初にそのような目に見えない内的基準で、「構想理想」「デザイン」を持った設計者・設定者がなければならず、そのような理想・イメージを構想した、より全体を観ることのできる、より主体的な存在である「構想者」がなければ、このような現実世界が顕現できなかったというのであります。この現実世界は、まさに、その「イメージ」が、実体的に展開された世界であると言うことができるのであります。

 

このような論理を以って、宇宙観・生命観をもう一度見つめなおしてみる必要が、現代の私たちにはあるのではないでしょうか?

 

もし、この進むべき方向性さえ間違えなければ、先端科学が、いまや、「その目に見えない基準」を立てた「設定者」を探求する準備を整えた、と言えるのだと私達は確信し期待します。

 

 

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